戦国の世に翻弄された悲劇の女性に思いを馳せる。

原作/井上靖「風林火山」のヒロイン 由布姫 諏訪御料人

【図】由布姫(ゆうひめ)

天文11年(1542)、信玄は本格的な信濃攻略に踏み出す。
最初の標的は信濃の豪族・諏訪頼重(すわよりしげ) の上原城。
頼重は信玄の妹・禰禰(ねね)をめとっており、同盟関係にあった甲斐への警戒心が薄く、一族の分家にあたる高遠頼継が信玄と通じたこともあり、上原城を追われた。講和を装う信玄に甲府へ送られた頼重はそこで自刃させられ、婚家を兄に滅ぼされた禰禰も翌年16歳で病没した。
信玄が諏訪攻略とともに得たもの、それが頼重の娘「由布姫(ゆうひめ)」である。
「尋常隠れなき美人」と現在にも伝えられる由布姫の美貌を目にした信玄は、当時まだ14歳の由布姫を側室へと望んだのだった。
重臣たちは揃って反対したが、山本勘助が諏訪への懐柔策(かいじゅうさく)になると進言し、これを説き伏せたという。
由布姫は父を殺した信玄の寵愛(ちょうあい)を受け、天文15年(1546)に後の当主となる勝頼を産む。しかしその後病の身となり、弘治元年(1555)に勝頼の成長を待つことなく、25歳で没したのである。

諏訪御料人(由布姫)の名前

「風林火山」では「由布姫(ゆうひめ)」として登場するが、歴史上での実名は不詳とされている。そのため、著名な作家によって様々な呼び名が考えられた。
新田次郎「武田信玄」では湖衣姫、海音寺潮五郎「天と地と」では諏訪御料人の名がその代表である。


信玄の右腕としてその名を馳せた天才軍師 山本勘助

【図】山本勘助

物語では武田家の当主となったばかりの信玄に召し抱えられた山本勘助は軍師としての能力を発揮。天下取りの第一歩として信濃攻略を進言し、諏訪頼重を滅ぼす。その折りに頼重の娘・由布姫と運命的な出会いを果たし、思慕の念を抱くようになる。由布姫の美貌に心奪われた信玄もまた由布姫を側室に望み、勘助はふたりの子が天下を手にすることを望むようになる。自らの思いを抑え諏訪の血を残すべきだと由布姫を説得する勘助。由布姫は父の仇敵(きゅうてき)・信玄の側室となり、やがて二人の間に勝頼が生まれる。
自分を信頼してくれる信玄と、その信玄を仇敵と憎みながらも惹かれる由布姫。
この二人を支え続けることが、勘助にとって生きる上での原動力だった。
戦国時代の最大の激戦、川中島の戦いは目前に迫っていた。
※ 山本勘助肖像:恵林寺蔵。武田信玄公宝物館展示(甲州市)

「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)

「甲陽軍鑑」は江戸初期に刊行された軍学書で、全24冊に及ぶ大作。
武田氏の戦略や戦術などが豊富に記載され、武田24将のひとりで代表的な知将・高坂彈正忠昌信の著書をもとに小幡景憲が編集したとされている。名軍師・山本勘助という人物イメージはこの「甲陽軍鑑」からの記述をもとに伝えられ、現在に至っている。


【図】人物相関図 【図】年表

※年表をクリックすると拡大してご覧頂けます。

※信玄は16歳(数え年)で元服した折には「晴信」を名乗っており「信玄」は39歳(数え年)で出家してからの名です。
本サイトでは「武田信玄」に統一して表記しています。

武田勝頼(諏訪四郎勝頼)

天文15年(1546)〜天正10年(1582)

 武田晴信の四男として生まれた。母は晴信の側室である諏訪頼重の娘(由布姫、諏訪御料人)。その名前に武田氏に代々使われる「信」の字が使われておらず、当初より諏訪氏の名跡を継がせようと諏訪氏に代々使われる「頼」の字が名前に付けられている。永禄5年(1562)に諏訪氏の名跡を継ぎ「諏訪四郎勝頼」として高遠城主となった。永禄10年(1565)には晴信の長男義信の謀反事件があったため後継者と目され、元亀2年(1571)には甲府に迎えられた。信玄没後は武田家当主として活躍したが、天正10年(1582)、織田信長に攻め込まれ田野(山梨県甲州市)で自害した。従来、甲斐武田家を滅亡させたとのマイナス評価が多かったが、武田家の最大版図を築くことができた戦力や、居館を躑躅ヶ崎から新府へ移すことができた政治力など、勝頼の力を評価する見方が増えてきた。

板垣信方

?〜天文17年(1548)
 武田信虎・晴信の2代に仕えた重臣。天文11年に諏訪を領有した翌年以降諏訪郡代を命ぜられ、諏訪氏の居城であった上原城の普請を行った。諏訪氏の居館跡を代官所にしたと考えられ、その場所は現在「板垣平」と呼ばれている。郡代在任中は領内の所領安堵も行っていて、諏訪には信方が発行した古文書も数点残っている。天文17年(1548)に上田原の戦いで没するまで務めていた諏訪郡代は、その後、弟の室住玄蕃允が務めたと考えられる。

諏訪頼重

永正13年(1516)〜天文11年(1542)

 諏訪惣領家当主。永正17年(1520)に諏訪上社の現人神である大祝(おおほうり)に即位し享禄2年(1529)まで務めた。天文6年(1537)に小笠原領の塩尻攻めで初陣、天文8年(1539)、諏訪家惣領で祖父の頼満が没したため惣領を継いだ。小笠原攻めは天文8年の和談で一段落、天文9年には小県郡長窪城を知行するなど、諏訪郡内に留まることなく領土拡大を目指した。同年、武田信虎の娘禰々を正室として迎え、天文4年(1535)の諏訪頼満と武田信虎の和睦以降の友好関係を維持していたが、天文11年(1542)武田晴信が諏訪へ侵攻し、甲府へ幽閉され自刃を遂げた。

禰々

享禄元年(1528)〜天文12年(1543)
 諏訪頼重の正室。武田信虎の三女として生まれる。天文9年(1540)に武田家と同盟関係にあった諏訪頼重に嫁いだ。天文11年(1542)に、頼重の嫡子虎王を生むが、わずか3ヶ月の後に兄晴信に諏訪を攻められたため、虎王丸とともに甲府へ戻ったが翌年死去した。

虎王丸

天文11年(1542)〜?
 諏訪頼重と武田信虎の娘禰々の間に生まれた。生まれた寅年は諏訪社の式年造営の年にあたり、上社の遷宮に併せて御宮参りを行っている。天文11年(1542)武田晴信の諏訪侵攻により父頼重が捕らえられると母禰々とともに甲府へ連れて行かれ、同年高遠頼継の反乱鎮圧のため、乳飲み子でありながら戦陣に擁された。甲府では千代宮丸と名乗ったとの記録があり、諏訪氏の系図によれば、長岌と名乗る者が頼重子息(母は武田信虎の娘)として記されているため、これが虎王であるとの説がある。父の仇を討つため晴信に刃を向けたため甲府から逃げ出し駿府へ向かう途中晴信の家臣に討たれたという。

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